texts & photos:Makoto
日時:2020年4月満月
95年1月、バックパッカー歴5年ほどの職場の先輩に、「お前絶対旅に向いてるから! 一緒に旅に行くぞ!」と誘われ、なんとなくついて行ったら、ものの見事にタイ、パンガンにハマってしまった。3月くらいに帰国した時にはすでに年末はゴアで過ごすと決めていて、その年の11月、初めて1人で旅に出た(ゴルゴと初めて会ったのはこの時だ)。それから足掛け12年、金を貯めては旅に出て、 基本1年に1回は旅に出る という生活を繰り返していた。
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今俺が住んでいるのはベトナム、ハノイ西方に位置するH省の省都であるH市だ。
この文章を書いている2020年4月現在、世界的に新型コロナウイルスの影響で外出自粛や都市のロックダウンなどがなされているようだが、ベトナムでもグエン・スアン・フック首相が「国内でも感染が急速に大規模に広がることが予想されている」として、世帯、村、地域、省ごとに隔離するとの原則を全国レベルで適用すると表明し、4月1日から外出の原則禁止令が出された。
俺が務めている会社でもすでに3月初旬からハノイへの移動禁止令が出されていて、実際ハノイが今どんな状況になっているのかはわからない。聞くところによると日本食屋も通常営業は禁止でデリバリーに切り替えているらしい。いつも使っているハノイでの定宿も4月一杯は営業停止だそうだ。いよいよ都市封鎖するんじゃって噂もある。ベトナムは社会主義国なので、決定が早く、実行も早いと言われているが、いづれにせよ刻一刻と変化する予断を許さない状況であることは他の国々と同じだ。
上記のように外出が原則禁止されているためハノイに遊びに行くことも出来ないので、今回は俺の住んでいるH市について書いてみようと思う。
初めてここに来たのは2003年で、まだ市に格上げされる前のH町だった時代だ。当時、小泉首相が推し進めた規制緩和の一環で派遣社員が『新しい働き方』などともてはやされていた時期で、旅の資金を貯めるために働いていた俺には都合の良い働き方だった。なにせ旅から帰って、「今回はこれくらいの期間で、これくらい稼ぎたいです」と派遣会社に連絡すれば配属先が簡単に決まり、旅に行く前は、「それじゃ、何月何日を最後にしてください、次はいつ頃帰ってきます」、「わかった、また帰ってきたら連絡くれ」 これで万事OKだった。
話がちょっと脱線したが、しかし旅の資金を派遣社員として貯めなかったことが1回だけある。それがこの2003年。今の会社にちょっとしたコネがあり、この会社のベトナム進出に伴い、工場の立ち上げを手伝ってくれと頼まれたのだ。俺に頼んだ理由はたった1つ。「お前なら1年くらい海外にいても平気だろ」
バックパッカーも10年続けりゃ、こんなこともあるんだなと思いつつ、結局この時は1年ちょっと働いて、そこで貯めた金はブラジル旅への資金となった。その後、この時の縁がもとで、2007年この会社に就職。2009年から再びこのH市赴任となって今に至るというわけだ。
このH市だが、当時の旅行ガイドでは『ハノイ近郊の見どころ』などで、小さく少数民族に会うツアーの出発点などと記載がある程度。ベトナム人の間では、旧ソ連の援助で作られた北部最大(当時。今は2番目)のダムが有名で、一時はハノイ近郊含めベトナム北部の電力の40%ほどを担っていたこともあるという。このダムから流れる川が街の真ん中を横切っており、これに架かるH橋とダムのある風景が街の象徴だ。
あと、これはここにきて知ったのだが、当時のバックパッカーたちの間で憧れとともに恐れられていた世界最大のヘロインの産地=ゴールデントライアングル(黄金の三角地帯)からハノイにヘロインを運ぶ主要ルート上にあり、警察と組織の激しい衝突がしばしばニュースになる街でもあった(そういえば最近は聞かないが)。確かに2003年当時から2009年に再赴任してしばらくは、ダム周辺の草むらやH橋の下には使用済みの注射器が墓標の様に突き刺さしてあるのが列になっていた。
2003年当時はとにかく途上国の名もない田舎そのままで、町の中心部がちょこっとあってまわりは全て田んぼという田園風景が広がっていた。夜はほぼ真っ暗。楽しいことなんて1つもなく、辺境には慣れていたはずのバックパッカーの俺でも、「こんなところ来たことねえよ、日本のサラリーマンは大変だ」と思った記憶がある。当時は工場がまだできていなかったから、工場予定地から橋を渡って車で5分程度の町の中心部に借りた家を寮代わりに使っていた。
ベトナムの一般的な家というのは3~5階建てで間口が狭く、奥行きが長い。税金が間口の広さで決まるからだそうだ。そして隣の家とのスペースがない。壁と壁がぴったりくっついて集合住宅のように立ってるので、当然、1番前の部屋と1番後ろの部屋にしか外に通じる窓がない。それ以外の部屋には廊下に面した窓が作られていた。俺たちの寮は確か5階建てで、1階は居間の共有スペース。5階は広いベランダがあり、洗濯機や物干しを置いた洗濯場。2~4階には各3~4部屋あって、それらが社員の個室として使われていた。トイレ、シャワーは共同で、浴槽があったかは忘れたが、当時のベトナム人の家には、普通、浴槽はなかった。こんな寮でベトナム駐在の日本人のみ7人ほどで共同生活をしていた。
自然が豊か過ぎる環境だから、当時の俺にはビックリすることの連続だった。個人的に俺はカエルが大の苦手なのだが、ある朝、居間で靴を履いて出勤しようとしたとき、足にムニュッとした感覚があった。もう瞬間的に悟って靴を脱ぎ、放り出したら案の定、カエルが入っていた。
寮のすぐ近くには市場があって、毎朝5時くらいになると絞められる豚たちの断末魔が聞こえた。ちょうど目覚めの前の1番心地よく大事な時間に、この有様。もっともこの断末魔は住みはじめて1週間もすれば慣れてしまった。
会社のイベントでBBQなんかをやったこともあるのだが、食材はすべてフレッシュ、生きたままの動物だ。 社員の大半を占める18~19歳の若い女の子たちが、ニワトリ担当。死期を悟ってキーキー騒ぐニワトリの足をつかんで逆さまにし、首にズバッとナイフを入れる。血がほとばしって動かなくなったニワトリを隣のコに渡し、もらったコは鍋にボンボンと放り込む。すっかりゆであがったニワトリの羽をきれいに毟って、一丁あがり。数少ない男たちは、2~3人がかりで絞めた豚を、ドラム缶を縦半分にした焼き場で丸焼きにしていた。
またベトナム人は犬を食べる習慣がある。ベトナムは暑いと思う人がほとんどだろうし、実際、夏は日中40℃超えが当たり前なのだが、ハノイを中心とする北部は旧正月前後の1ヶ月くらいはかなり寒くなる。気温でいえば10℃くらいだが、湿度が高いせいか寒さの質が違う。日本の冬が肌をスパッと切るような寒さだとしたら、じわじわと骨身にしみてくる寒さというか。実際、ベトナム北部では10℃を切ると学校は休みになるくらいと言えば、その違いがわかってもらえるだろうか。そんな冬を乗り切るために、犬は体を温める食材として人気があり、冬の宴会といえば犬鍋が1番人気だった。日本帰りのかわいい女の子の通訳も「私、犬大好きです」とにっこり笑って言っていた。もっとも最近はあまり食べなくなってきたようで、先日、その子にこの話をしたら「私、犬なんて食べません」と涼しいと顔をしていた。
ハノイへの移動手段は、乗り合いバスくらいしかなかった。道もまだ未舗装の部分が多くて、ガタガタと揺れる悪路を3時間くらいかかってやっとハノイに着く有様だった。しかも当時のベトナム人は乗り物に慣れていない人が多く、乗客のほとんどが少し走ると皆ゲロゲロと吐いていた。乗り合いバスには必ず汚物入れの袋が大量に完備されていて、吐き終わったあとはその袋を窓から外に放り投げていた。当然車内には酸っぱい匂いが充満し、ハノイに着いた頃はもうヘトヘトだった。
2009年に再赴任した頃も、2003年とほとんど変わらない状況だった。すでに市に格上げされてはいたが、それでもまだ住所の表記はH省H市○○地区だけで、道路名や番地が入ってやっと住所らしくなったのは18年3月のことだ。ただ道路事情はやや改善されていて、道はほぼ舗装道路になり、ハノイまでは2時間ちょっとで行けるようになっていた。
この頃のベトナムは、一家に1台、バイクが買えるか買えないか。自家用車なんかほとんど見かけず、走っているのはトラックなどの商業車ばかりだった。それでもちょっと金を持った人間が車を買って、それで商売をはじめるような例もあって、俺たちがハノイに行くような際はそれらの人に頼んで行くようになったので(要するに白タク)、乗り合いバスは利用しなくてもよくなった。ハノイまでの道中では必ず何台かの車が道を外れて転がっていて、バイクで事故った人間が倒れているのも2~3件くらいは見るのが普通だった。それが年とともに事故も少なくなり、今では都市部を除けば事故車を見かけるようなこともほとんどなくなった。
街中の様子もあまり変わり映えしなく、週末に同僚とたまに外食するにしても屋台に毛が生えたような食堂で、 ベトナム料理 として有名なフォー(米粉うどん)やコムザン(チャーハン)、ミーサオ(焼きそば)、ネムザン(揚春巻き)などを食べていた。ちなみにネムクン(生春巻き)は、もともと宮廷料理で一般的な料理ではないからH市では出す店を見たことがない。たまにレストランと呼んでもいいようなキレイな店や、韓国系のファーストフード(フライドチキン)チェーンが出来たりもしたが、1~2年経つと消えていて、残っているのは当時からの食堂ばかりだった。
もともとベトナム人は喉に悪いといって、冷えた飲み物を飲む習慣があまりなかったらしいが、店で出されるビールは常温で、氷を入れて飲むのが普通だ。今でも生ビールを出す店はほとんどない。とにかく街にはベトナム料理の店しかなくて、辛かった。だからハノイに行くときはとにかく飯が楽しみで、3食食いまくっていた。2010年にAPプラザという、ホテルを兼ねたショッピングモールができたのが、ほとんど唯一の街に関するトピックだった。
そんなH市も、2年くらい前には高速道路が繋がり、ハノイの端までは1時間半くらいで行けるようになった。逆にハノイの渋滞が激しくなり、市内の移動は、下手すると1時間くらいかかってしまうようになってしまったが。車も例の乗り合いバスのほか(さすがにゲロゲロ状態も改善されているのでは)、いろんな種類のバス(小型高速or冷房有etc.)が走るようになり、Dカー(デラックスカーの略:10人乗り程度のバンで、シートに余裕があり、内装も少し豪華。ハノイまで片道10万ドン・約500円)などと呼ばれる車も走っている。何よりH市の街中にも普通にタクシーが走るようになり、今はこれらタクシーを使ってハノイに行っている(片道70万ドン程度・約3500円)。
この2年前くらいを境に、H市も一気に開発が進んだ。というより、ベトナム自身が今、一気に発展に向かっているのは間違いない。それまでも少しづつ変わってきたのは感じていたし、ハノイなんかは5年くらい前から発展してきたと感じたが、この2年間はまさに高度成長期という波に乗って進んでいるのを肌で感じる。
街も3年くらい前に出はじめた韓国風焼き肉の店が今では数件になり、今年になってからは刺身、寿司を看板に上げる店がオープンした。もっとも中身はベトナム風の鍋屋で、刺身などはサイドメニュー的な扱いだが、冷凍もののサーモン、子持ちコハダ、北寄貝、ホタテなどがあり、これらが食べられるようになっただけでもありがたい。またベトナムでナンバー1のデベロッパー、ビングループが経営するショッピングプラザ “ビンコムプラザ”もできたし、同じくビングループのコンビニ “ビンマート”もあっという間に6件になった。ハノイのアパレル系チェーン店なんかも進出してきている。そして昔に比べて夜の街がホントに明るくなった。H橋1本しかなかった橋も、現在下流に2本建設中で、そのうち1本は今年中に開通予定だそうだ。
昔はこんな田舎なんて、ベトナムなんて大嫌いだと思ったことも多かったが、今のこの勢いを感じると現金なもので急にベトナム良いよ、サイコーだよなどという気持ちにもなってくる。でも偽らざる本音でもあるし、今は、これからベトナムが、そしてこのH市がどうなっていくのか、期待を持って見つめていきたいと思っている。