[レター] Việt Nam, ハノイでLifeを取り戻す, vol.3(written by Makoto)

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ハノイ
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texts & photos:Makoto

日時:2020年5月満月

ベトナムを旅したのはバックパッカー時代の97年の1回限り。カンボジアから陸路でホーチミンへ抜けて、その周辺(ベトナム南部)を少しまわって2週間くらいでおさらばしたと思う。当時はまだ現在のようなグローバルな世界にはなっておらず、中国やベトナムはまだ閉鎖的な部分があった。ベトナムはアライバルビザが取れるとはいうもののビザは必須だったし(2015年以降、日本人は滞在期間15日以内であればビザ不要となった)、何よりベトナム人料金と外国人料金というのが存在していた。

そのころのホーチミンはのどかな雰囲気が流れる、まだまだ発展途上の田舎町という感じで、バンコクやインド、バリのようなエネルギッシュで刺激的な街と比べると正直イマイチな印象だった。 

 

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今ではハノイなど大都市では隔週土日休みなども増えているが、俺の住んでるH市はまだほとんどの会社が日曜休みのみ。以前は、ついつい日々に流され休日をグタグタと過ごしてしまうことも多かったのだが、これでは人間がダメになると一念発起。6~7年ほど前から、月1で必ずハノイに行くことを決めた。

ハノイ

 

当時(2003年の初赴任時や2009年頃)のハノイで飲みに行くとなると、ライブハウス風飲み屋とかスポーツバー、もちろん音楽をかけている飲み屋などもあったが、DJがいてフロアがあってというディスコ、クラブのような店はまだ珍しく、踊りに行くとなるとホテルに併設されたデカい箱くらいしかなかった。

シェラトンホテル併設のナッツが一番早くできたはずで、「白人達が集まってるっていう話だよ」という情報が、当時のハノイ日本人社会から得られるほとんど唯一の情報だった。ベトナム社会の発展度と駐在者の絶対数の不足もあるが、そもそもその頃の、海外進出企業の駐在者たちが増えて日本人社会ができるくらいになったような最初の段階では、駐在者の世代的なものもあり、アフター5(そもそもこの言葉も今の若い世代にも使われてる言葉なんですかね?)にクラブやディスコのカテゴリーが存在していなかったと思う。97年の旅でのホーチミンも外国人旅行者の集まる飲み屋の延長線上にある一形態に過ぎず、このころまでは音を楽しむ空間=クラブやディスコといったインフラも、それらによって積み上げられた時間が重なりあって形づくられていくもの=パーティーカルチャーもいま当にスタートしたばかりという時代だったんじゃないか?

ハノイ

 

結局、俺はナッツには行くことがないまま終わってしまった。なくなるという情報も聞かず、気づいたらなくなっていたという感じだったからベトナムのパーティーカルチャーからは外れた存在だったのかもしれない。実際ナッツに踊りに行ったという人間にも会ったことがない。

さて上記のような状況下で、俺の駐在開始とほぼ同時期にできたのが、ダイウホテルの左隣にあったニュースクエアという大箱のクラブだ。そもそもダイウホテル自体が今では信じられないほど重要なハノイのランドマークで、俺たちが会社の仲間たちとハノイで週末を過ごす際は、H市に帰るため日曜の夕方、各自ここに集合するのが約束だった。

ハノイ

 

現在は、このダイウホテルの裏側に新たなランドマークであるロッテタワーができた(14年開業)ので、今回は新旧のランドマークを同じ写真に収めてみた。

ハノイ

高さの違いは一目瞭然。そもそもダイウホテルは高い建物ではないので、こんな言い方をすると失礼かもしれないが、普通ならランドマークになるほどの建物ではなかったと思う。でも当時はハノイの真ん中でさえ、ダイウホテル以外、建物らしい建物がほとんどなく、まだまだ空き地の広がる発展途上の街だったのだ。

このニュースクエアとその後、郊外にありハノイから西への高速道路の入り口にあるグランドプラザホテルの地下にネクストトップという箱ができた。どちらも箱の大きさは、2~3000人規模のパーティーができるだけの広さはあったと思う。ただこの頃のクラブ(と言っても2件だけだが)は、ライブバンドの代わりにDJがいて、ブースはどちらかと言えばステージに近い役割だった。フロアも広さの割に狭く、全体の3割程度のスペースしか取っておらず、そこから外側に4~5人用のスタンディングテーブルがフロア全体にぎっしりと並んでいた。値段はとても高く、瓶ビールなどを単品で比較したら相場の10倍くらいしたと思う。気取ったベトナム人たちで結構賑わっており、俺たちが行くのは大抵、夜の仕事をしている娘たちから誘われるというのがほとんどだった (もちろん財布係)。

ナッツは白人が主だったという話だから、この頃からクラブというのがベトナムでも認知されるようになったんだと思う。ただあの頃のクラブは、決して踊るための場所ではなかった。テーブル席をグループで予約し、仲間と楽しむ。フロアは、それぞれ独立した身内のパーティーの大きな集合体だった。音は東南アジアのディスコなどでよく流れていた曲が多かったと思う。音質についてはあまり覚えていないが、悪いと感じたこともない。そういう場所だから、機材や設備については結構金をかけてたんじゃないかと思う。この頃のハノイはクラブに限らず、ナイトスポットは深夜0時までの営業しか許されておらず、どんなに遅くても午前2時位までが限度だったと思う。

踊りたければ行くんじゃないという場所だったので、俺としてはたいして面白くもない。そのうちベトナム人たちも飽きはじめたのか、誘われることも少なくなったのでそのまま気にもしていなかったが、ネクストトップは5年間営業したかしないか程度の期間で閉めたと聞いた。ただしエントランスはまだ当時のまま残っている。今ならいざ知らず、あの当時で、あのスペースはちょっと大き過ぎた。あれだけの大箱を運営するのはまだベトナムでは厳しかったということだろう。ニュースクエアの話も特に聞くこともなかったが、ここは現在、グラミーという名前に変わって、まだ続いているようだ。

ハノイ

グラミー

 

ところで、ここらへんで少しハノイの地理を説明させてもらおう。

ハノイは、ベトナムの北部に位置し、ベトナム社会主義共和国の首都である。ベトナムの歴史上でも賢君として名高い李太祖(李朝ベトナムの初代皇帝)が1010年にこの地へ遷都してから、すでに千年以上の歴史がある堂々の古都でもある。またフランスに支配されたり、アメリカと泥沼の戦争(戦地は主に南部だったが)を続けたりという有名な歴史も、今のベトナムにさまざまな影響を与えている。

ハノイはいくつかの地区(District)でわけられているのだが、日本人では名前を聞いたこともないような地区もたくさんあるので、我々駐在者に関係の深い地区をいくつか紹介する。

 

◆バーディン地区 (別名:キンマー)

ハノイと言えどもまともなホテルが少なかった当時から、大勢の日本人がよく利用していたハノイホテルとフォルチュナホテルの2大ホテル (このホテルの共通点は、ホテル内のナイトクラブに客として行けば女の子を連れ出せるのだ)が地区内にあり、アパート、マンションにも日本人駐在者が多いエリアだ。ただしバーディンと呼ばることはあまりなく、どちらかというとこの界隈の大通り、キンマーの名で呼ばれることが多い(上述したダイウホテルはキンマーのほぼ真ん中にある)。

このキンマー沿いには日本食屋がたくさんあるし、スーパーの類にも困ることはない。またこのすぐ近くで、やはり有名なリンラン通りには、キャバクラ(ラウンジと呼ばれる)と日本食屋、スーパーなどが乱立している。ちなみにここの西南側は韓国人、中国人の多いエリアで、中華料理屋や韓国料理の店が多くなる。

ハノイ

 

◆ハイバーチュン地区

ここも日本人駐在者が多く、日本食屋やラウンジも多いが、どちらかというと小洒落たベトナム人向けの界隈という感じ。こじんまりとした隠れ家的なバーなども多く、日本人の知り合いはこの界隈でショットバーをやっていた。

 

◆タイホ―地区 (タイ湖地区:ホーはベトナム語で湖の意)

この辺りは、昔から白人たちのテリトリーという雰囲気があったが、最近は若い世代を中心に日本人駐在者も増えてきた。タイ湖はハノイで一番大きい湖で周辺一帯がホータイ地区と呼ばれているが、北西側と南東側で若干毛色が異なる。外国人向けのレストランやバーなどがあるのが南東側で、シェラトンもこの界隈にある。北西側はローカルの住宅街といった感じ。最近人気のエリアで、名前を聞くようになったクラブなどは大体この周辺にある。

 

◆コーザイ地区

ハノイの西側で、昔は郊外の田舎的雰囲気だったが、この数年で開発が進み、賑やかな街並みになってきた。日系の若い会社(ITやサービス系)が進出する際は、この界隈に事務所を置くことが多いらしい。近くにはハノイの大規模バスターミナルの1つ、ミディンがあり(H市行きのバスはここから出る)、北部第一のミディン競技場もある(サッカーW杯の予選で日本とベトナムのフル代表が激突する可能性も)。

その他、ハノイの東側にはホン川(紅川)が流れており、ホン川の向こう岸はロンビエン地区という。川を越えるとベトナムローカル色がいっそう色濃くなるが、ベトナム北部で最初のイオンモールはこの地区に建てられた。

 

◆ホアンキエム地区

そして、最後に紹介するのがホアンキエム地区だ。ホアンキエムというのはハノイ市内にある湖の名前で、神格化されるに相応しいいろいろな伝説をもったその湖はこの街の守り神的な存在でもあり、ハノイの街はホアンキエム湖のまわりから外側へと広がっていったと言われている。

ハノイ

 

先程紹介した各地区が新市街なら、この界隈はまさに旧市街であり、フランスの支配下にあった時代の建物や当時の様子を現在に伝えている。そしてベトナムを訪れた外国人、観光目的をはじめとした旅行者のほとんどすべてがこの界隈を訪れるのだ。おそらく海外の人間に一番多く見られているハノイの風景(写真含む)は、このホアンキエム湖に浮かぶ亀の塔ではないだろうか。アジアの国々に残る街の熱気や、雑多なパワー、良くも悪くも外国人の扱いに慣れた現地の人々、衣食住すべてに不自由しない利便性などが旅行者を集めているのだろう。

ハノイ

 

そしてこの地区は元バックパッカーだった俺のテリトリーでもある。日本人駐在者の多くは、この界隈をツーリストプレイスとしてプライベートで訪れるようなことはあまりないと思う。実際、この界隈や行きつけの店で日本人と会うことはほとんどない。でも、この地区の中心地的な飲み屋街ターヒエン・ストリートを見つけた時は、世界中にある有名な安宿街(バンコクのカオサンロードなど)の雰囲気が溢れ出ていて、俺にとっては勝手知ったる旅先の街だった。とにかくここでの時間は、俺にはホント楽なんだよね。

ハノイ

 

宿や行きつけの店などもほとんど固まってしまい、同じパターンの過ごし方しかしてないが、それでもこのパターンになってからすでに8年くらい経っていることになる。

ニュースクエアとネクストトップの話を上述したが、今につながるパーティーカルチャーの担い手(DJなど)は、おそらくこの界隈のようにいろんな人種たちと出会い、交流し、仲間たちと金を出し合って店を借り、理想の音やパーティーを求めて試行錯誤を繰り返していたはずだ。そういうまったくの個人が個人のためにしていたことが、ある時を境に集まリはじめ、やがて大きなムーブメントになっていくことはよくある。最近、急にパーティーの話とか、箱の話とかが増えてきた気がするのも、そういうことなんだろうと思っている。そして俺がそれを絶対だと信じることができるのは、確か赴任してから3~4年経った頃で、友達との付き合いで、結果的に俺が行った最後のニュースクエアでの場面をはっきりと覚えているからだ。

その頃の俺は、この界隈をふらつきはじめたばかりのころだったが、やっぱ夜、音に浸りたくなる時は結構あるので、どこかいいスポットはないかと、漏れ聞こえてくる音を頼りに、いろいろ探し回っていた時だった。ある日、トンネルクラブという小さいクラブを見つけた。正直に言えば、もうどうしようもない、ただのガキどもの溜り場でしかなかった。でも音は切らさないし、小さいながらもフロアをちゃんと確保していたので、なんとなく通うようになった。そこはおそらく4~5人のDJ希望者がいたようだったが、仲間内だし全然気楽なものだったはずだ。だがそのなかに毎回必ずいる1人がいた。彼は誰かに言われない限りずっとマワしっぱなしで、自分からDJを下りることはなかった。傍から見ていて、真面目にDJの技術を練習しているのだということが自然に伝わって来た。

さて、その日のニュースクエアに話を戻すが、その日もいつも通りのニュースクエア。ただ友達が俺を誘ったのは、友達の彼女とその友達というのがマジ踊り好きで、彼女らがフロアに出ていく時、一緒に出て行ってやらないとお冠なんだって。どの程度踊れんのか見てやろうと思ったが、なるほど確かに音が止まるまでは帰らなそうだなと思ったので、こっちも最後まで付き合うことに決めた。そうこうしているうちに深夜0時前になったが、その日はもう一人DJがいて、そいつがトリだとのこと。当時は普通、11時過ぎてDJが変わるということはあまりなかった。

そのうち最後のDJに変わった様子だったので、音を聞いていたのだが、そこで何かが少し引っかかった。オッと思わせる音だったというか。それに引かれて、ちょっとどんなDJか見てみようとフロアに出たのだが、最初はあれっ?て感じだった。 そしてエッ? あれってもしかして……、と確認しながら前に進んでいき、そしてついにあのときの彼が今回のトリを務めていることを確認したのだ。このとき俺はフロアの一番前でDJと相対している格好になっていた。ブースはフロアより高いところにあるので、俺は彼を改めて見上げるような恰好になったのだが、その時、彼も気づいてお互いに目が合った。そしてお互い自然にサムズアップ。どの世界でも努力してる奴は這い上がっていくんだと思った。けど、そんなことはどうだっていい。俺はあの瞬間、自分のこと以上に嬉しかった。ただ単純に嬉しかった。

その後も俺は相変わらずホアンキエム界隈をのたくりながら、どっかでいい音を出してるところはないかと思っている。さっきのトンネルクラブも、その後気に入っていたファンキーブッダバーも今は変わってしまった。今の行きつけの店は、やはり長い付き合いで、ターヒエン通りの老舗トムズバーくらいになってしまった。

 

そしてそんな状況の中、今回、旧友のゴルゴよりベトナムの今をレポートしてくれと頼まれた。いろいろと考えたくなることもあれば、考えなくていいことを考えてしまうこともあるが、まずは今回、申し出を素直に受け入れ、しばらくはパーティーを求めて生きる生活に、少しだけ戻ってみることにしようと思っている。

ちなみにベトナムでは新型コロナウイルスの状況が少し落ち着いてきた感じもある。俺の住んでるH市などの低リスク地帯は4月16日から外出禁止令が解除になり、23日からはハノイも解除になった。そこで早速29日に超久々のハノイへと行ってきた。印象では、いつもの6割くらいの人出だという感じで、肝心のクラブやバーはまだ休業しているようだ。

ハノイ

 

久しぶりのハノイだったこともあり、テンションも上がってしまったようで、もう大丈夫のような気にもなってしまったが、依然世界で新型コロナウイルスの影響は続いており、先を見通せない状況もまだ変わっていない。H市もこの先どうなるか分からない。早く終息に向かうことを祈るばかりだ。

 

[レター] Việt Nam, ハノイでLifeを取り戻す, vol.2(written by Makoto)

[レター] Việt Nam, ハノイでLifeを取り戻す, vol.1(written by Makoto)

 

 

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