[レター] Việt Nam, ハノイでLifeを取り戻す, vol.1(written by Makoto)

キリマンジャロ
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日時:3月満月

 

先日、ベトナムから旧知の友人であるマコトが一時帰国し、週末の2日間を東京でともに過ごした。

土曜の夜はTaguchiの平面ユニットスピーカーの音を聴いてもらおうと表参道のVENTに立ち寄り、そのまま日曜の明け方(あいにくの雨だった)にはある友人が「トーキョー・ナンバーワン・チルアウトスポット!」と称する天然温泉銭湯でくつろぎ、日曜午後からは代官山UNITで開催されていた“MOVEMENT ONENESS MEETING~創造の伝承~”へと遊びに行った。

 

マコトは書籍『太陽と風のダンス』の中でミツルという名前で登場する。肩の後ろにサソリの刺青があり、1995年にゴアで初めて出会ったときには丸い錠剤を飲んでそのまま寝てしまうというイミフな男だ。

2001年ザンビアでの皆既日食で、2002年オーストラリア・アウトバックの皆既日食ではフェスティバルが終わった後にバイロンベイで、それより前の1998年にはマチュピチュへのトレッキングの拠点でもあるクスコの町などでも再会している。2005年にブラジルで会ったときにはサンパウロ郊外のフェスティバル(SOLARIS Festival、DVD『太陽と風のダンス2』に収録)に一緒に行ったほか、リオデジャネイロでは世界で1番エネルギッシュな娼婦街に通ったりもした。

 

いまでは山登りやトレッキングもすっかりメジャーだが、マコトがアンナプルナのトレッキングルートを2週間かけて歩いたのは2000年、前述した2001年ザンビアでの皆既日食の直後にはアフリカ最高峰のキリマンジャロへも登頂した。どちらもマコトにとっては旅先の散歩の延長のようなものだったろう。会って話したときも、どこが大変だったとか、どこがどのように素晴らしかったとか、そういう話はいっさいなく、ただ「ちょっと歩いて来たよ」と言って面倒臭そうにタバコの煙を吐き出すだけだった。

地元の沼津では1998年からHYPER CUBEという小さなパーティーをオーガナイズしていて、2018年の帰国時には20周年パーティーを開催したらしい。いっときは旅行添乗員などの仕事もしていたマコトがベトナムで働きはじめたのはいつだったか? はっきりとは覚えていないが、もう10年以上になることは確かだ。

ベトナムといえば昔からホーチミンのフォングーラオ・ストリートが安宿街として有名で、バックパッカーたちが集まっていた。とはいえ、タイのカオサン・ストリートなどに比べると、少なくとも当時はひっそりとした印象で、道の両側とその周辺に建つゲストハウスを合わせても10軒そこそこがやっとといった感じだった。ゲストハウス自体も比較的新しいものが多く、そこそこ快適ではあるが少々味気なくも感じたものだ。

ベトナム

長いことベトナムにも行っていないので現状どうなっているかはわからないが、ここ数年では日本のZIPANGチームダナンやホイアンにも進出して現地を賑わわせているようだ。是非どんどんやってもらいたい♪

マコトが暮らしているのはホーチミンでもダナンでもなく、ハノイから車で2~3時間という不便で地味な場所だ。名前を覚えてもこの先一生役に立つことはないだろうと思われる不遇な町の片隅から、マコトが見たリアルなベトナムの情景を書き届けてもらうことにした。少しづつではあるが、いろいろな話が聞けるだろうと楽しみにしている。

 

 

~~~~ここからマコト・レポート~~~~

texts : Makoto, Photos : Festival Trip

 

 

長い付き合いだが、どうやらゴルゴ内藤は俺がどんな人間か少し誤解しているようだ。

アンナプルナもキリマンジャロもすごい経験だった。特にキリマンジャロは俺の経験の中でもNo1(日食とどっちかな)の体験だ。アフリカから帰った後は、それこそ会う奴みんなにキリマンジャロの話をしていたはずだ。

俺の旅はパーティーモードとトラベラーモードの2つのパートで成り立っているのだが、奴と会うのはたいていパーティーモードの期間だ。その頃には前の旅のトラベラーモードでの体験はすでに古い記憶になっているし、そもそもモードが違うからあまりその話題に触れなかったのかもしれない。

だから今回は遅ればせながら、ゴルゴ氏にキリマンジャロの報告をすることにする。ベトナムとはまったく関係のない話だが、今は新型コロナウイルスの影響でハノイに行くのを自粛させられていて、目新しい話題もないしちょうどいいだろう。

それでは第1回 『ハノイでLifeを取り戻す』スタートです!

 

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パーティーが終わり、誰かとは一緒に、誰かとは別れを告げ、やっとこ街までたどり着く。そこで熱いシャワーとちょっと贅沢な飯を食い、そのまま眠りに吸い込まれていく……。

俺の旅は大体、

①メインパーティー(ゴアのクリスマスパーティーとか、皆既日食パーティーとか)

②トラベラーとしてのメインイベント(トレッキングや遺跡巡りなど)

の2本立てで構成されている。旅の間は自分の中にもこの2つのモードが存在する。今パーティーモード120% とか、トラベラーモード8割だけどレストランの音楽のせいでパーティーモードが上ってきたとか。で、このモードの割合が旅の判断にかなり影響する。

2001年、ザンビアでのエクリプス・パーティー(Sopipse 2001)が終わり、パーティーモードからトラベラーモードに切り替わる。この旅のメインイベントはなんといってもキリマンジャロ登頂だ。

アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ山は、富士山と非常によく似た単独峰で、頂上は火口のクレーターになっている。登山ルートをひたすら登っていき、このクレーターにたどり着いた場所がギルマンズポイント(5685m)と呼ばれる地点だ。ここまでたどり着けば登頂と認められ、登頂証明書も交付されるのだが、さらにそこからクレーターの縁を2〜3時間歩き続けたウフルピーク(5895m)が本当の頂上になっている。

キリマンジャロ登山のベースになるモシ(Moshi)は、キリマンジャロ州の州都で人口は15万人ほど。標高が高く冷涼な気候のため、その気候を生かしたコーヒーや紅茶の栽培が盛んで、周辺はキリマンジャロ・コーヒーの産地として知られている。なるほど山にばかり気を取られていたが、街に着くといたるところにCoffeeの文字が見える。宿の名前も“Coffee Tree Guesthouse”のようなものが多い。

ここに来ているのは大体、キリマンジャロに登ることが目的だから西洋人も多く、バックパッカーからちょっとリッチな旅行者まで幅広かったような気がする。日本人バックパッカーに限れば当然、山好きな連中が多く、バンコクやインドに比べるとちょっとゴツイ感じの人間が多かった

キリマンジャロ

 

キリマンジャロに登るには1グループに必ず1人ガイドを付けなければならず、またトレッキングの間の食料なども自分たちで用意する必要がある。自分で持って登ってもいいのだが、普通はポーターを雇って食料などは彼らに持ってもらうことになる。

“旅の荷物はなるべく少なく”をモットーにしている俺は、これら旅のイベントに必要なものは現地調達が基本だ。それなりのモノはレンタルし、小物などは現地で買う。ハット(山小屋)に泊まるので、テントなどは用意する必要はないが、防寒具や登山靴、ストック(超重要)、ストロー付きの水筒(最後の行程で超重要)などが必要で、これらはレンタルでまかなえる。いずれにしろ現地で調達できずにイベントをあきらめざるを得ないような事態になったことはない。現地に行けば、それなりにどうにかなるものだ。

キリマンジャロ

 

事前の情報収集で聞いた話では、頂上付近の最終行程では-20℃くらいまで気温が下がる(俺は超寒がりだ)ということだ。ガイドとの相性も重要で、「俺のガイドは良かった」とか、「あいつは許せない」などの話をたくさん聞いた。同じガイドでも、良いという人もいれば悪いという人もいるから、やっぱり相性なんだろう。評判を参考にしてガイドの指名をすることもできるが、特に指名がなければツアー会社が選んだガイドにお願いすることになる。

登山ルートには一般的なマラングルート(通称:コカコーラルート)から一番きついウィスキールートまでいくつかあり、日程、体力、登山の技術などによって選択可能だ。登山が終わってからわかったが、ルートより大事なのが日程で、同じルートでも高度順応のための予備日を加えて日程を組むこともできる。といっても金に余裕があるわけじゃなし、俺らみたいなバックパッカーは普通最短コースを選ぶことになる。山から降りてきた人たちに話を聞いても大体そうだった。でも彼らは一番大事なことは教えてくれてなかったね。

旅人同士、情報交換は当たり前だ。それなりに仲良くなるし、困ったことがあれば助け合うこともある。でも当時のバックパッカーには内心、旅人のレベルという価値観があって、こいつは俺より上だ、下だって意識がどこかにあったと思う。俺がキリマンジャロを降りてきて、これから登る奴らに聞かれたら、アドバイスすることはただ1つ。でも俺が登る前にそれを教えてくれた奴はいなかった。そこは自分で経験するところ、というのはもちろんある。見ててむかつくほど、何から何まで人に甘えっぱなしっていう奴がたまにいるのも事実だし。でも、そんな底意地の悪さが当時のバックパッカーには、どこかしらあったように思う。ただ俺は絶対そうじゃなかったと言い切れるかと言われれば、そこまでの自信もないけど……。

キリマンジャロ

 

現地で知り合った日本人のT君と2人で登ることになり、必要な装備などを揃え、ガイドも決まった。ポーターは3人で、計6人のグループだ。日程は最短コースで計5日。3.5日で登って、1.5日で降りてくる。ポーターの人数が多ければ当然費用も高くなるが、5日分の食糧や鍋窯などを1人で2人分持って登ってくれると考えたら適正人数じゃないだろうか。

正確な費用は忘れてしまったが、当時の金銭感覚を考えると、1人US$500~700程度だったんじゃないかと思う。バックパッカーとしては大きな出費だが、サラリーマンやってる今考えるとずいぶん安いとも思う。もっともこういうところの値段は交渉次第ってところがあり、正しい相場を知らないと同じ内容でも10倍くらいの値段で登ることにもなりかねないし、タイミングによってはUS$300くらいで登れたりするのかもしれない。

出発当日。グループの顔合わせもあったが、ポーターの彼らとはこの時以外はほとんど接触がなかった。登山ルートの入り口で、登録を済ませて登山開始。最初はジャングルのような熱帯雨林的な景観だが、登るにつれて高山のような景観に変わっていく。

キリマンジャロ

キリマンジャロ

 

キリマンジャロはなだらかな登りがずっと続く登山道で、ルート的には、アップダウンが激しく丸木の橋を渡ったり、片側は奈落の底みたいなアンナプルナのトレッキングより全然楽だった。途中、紫色した白人が担架で降ろされているのとすれ違ったり、香港人の女の子3人組と知り合ったりした。

余談だが俺が旅をはじめたころ、バックパッカーで出会う東洋人は、まず間違いなくほとんどが日本人だった。それがこの頃になると韓国人も多くなり、香港人なんかとも会うようになる。中国人はまだいなかった。

キリマンジャロ

キリマンジャロ

キリマンジャロ

 

素晴らしい景色を満喫しながら、3日目の行程終了。正直、楽勝だった。明日はご来光を見るため夜中に起きて、いよいよ頂上アタックだ。

キリマンジャロ

 

AM2時、目覚ましの音で目を覚ます。熟睡できなかったのか、起きた時点から何か強い違和感を感じていたの小屋には高度順応のため6日コースのグループと、俺たちの様に山頂アタック組がいるはずで、まだ寝てる人もいるし、グループごとに出発時間も違うから明かりは点けない。もちろん同じような時間に出発するグループもいるので、そこここでカサコソと準備をしている気配を感じる。

懐中電灯で身の回りを照らしながら、まわりに気を使いつつ、俺たちも準備をはじめた。布団から抜け出し、寒さに震えながら防寒着を着込む。顔洗って、歯を磨いて……。でも、荷物のパッキングをしてる最中も体がだるい感じがしていた。そんなことはないと自分に言い聞かせながら、T君といよいよ登頂だねなどと平静を装いつつ言葉を交わす。一抹の不安を感じつつ、準備完了。

まだ真っ暗な中、ガイドとともに出発する。

登りはじめてすぐ、自分をごまかすことができないほどの不調を自覚する。これが高山病ってやつだろう。呼吸は苦しく、頭はガンガン痛み、意識も朦朧となってくる。ストックに寄り掛かかりながら前のめりに進もうとするが、1歩が靴のサイズ程度しか踏み出せない。そんな中、あれほど警戒していた寒さについては、思ったより全然寒くないな、今この程度ならいつになったら-20℃くらいになるんだろう……などとぼんやり思っていた。

高山病の対策としてはとにかく水を飲むことがいいらしい。前日までは水筒を腰に付けていても、休憩するまで水を飲みたいなどと思ったことがなかったから水筒が活躍することはなかった。これならペットボトルをリュックに入れておいても大丈夫じゃんと思ったりもしていたが、最終行程は話が別だった。

この日は出発してから早々に喉が乾きはじめる。水を飲もうとして、腰に水筒を付けておくことがどれだけ大切か理解できた。何しろどんな小さな動きでも、すべての行為がきつくてリュックから水筒を取り出すなんてとうてい出来なかっただろう。

そんな状態で、いざ水を飲もうと腰にぶら下げた水筒に口をつけてビックリした。口に水筒を持ってくるまでにおかしいな?という感覚があったのだが、なんと中の水がシャリシャリに凍っていた。最初は信じられなかったけど、確かに凍っている。出発前は確かに普通の水だったのに。俺の感覚がおかしかっただけで、ここはすでに-20℃の世界だったんだ。

本当に少しづつ前進していくうちに、周囲もだんだん明るくなっていく。遠く上の方にクレーターの影が見えはじめて、そこを目指してとにかく頑張る。T君はもっと苦しそうで、距離も離れてしまったが、こっちも自分のことで精一杯だ(ガイドはどっちも見ててくれるので大丈夫だが)。

明るくなりはじめてからは顔を上げることもあったが、登頂アタックの最中は常に下を向いていた。というより自分の足元しか見ていられなかった。自分の左右の足とストックの先は常にひと固まりで、視線を動かさなくてもすべて視界に入るくらいだった。ペンギンみたいによちよちとしか動かない自分の足を見ながら、ときどき1歩、2歩と数えたりした。ちょうど眠れない人が、羊が1匹、羊が2匹と数えるように……。

そんな中、ついにギルマンズポイントに到着。クレーターの向こう側には荒涼とした大地に、巨大な氷の塊が聳え立っている。ところどころ朝日を浴びてキラキラ光り、中心部はホワイトブルーっていうのか青みがかっていてすごくきれいだった。ギルマンズポイントに登った瞬間、それが目に飛び込んできて、月並みだが一瞬息をのむって表現がぴったりだった。

キリマンジャロphoto : hideto328

 

山登りだけじゃなく物事すべてに言えることだが、てっぺんに立ったりピークにたどり着くと、それまでの苦労や苦しみから少しは解放されるだろう。少なくとも、その場に立ったことを噛み締めるくらいはできるはずだ。

ところがこの時だけはホント一瞬にも満たなかったんじゃなかろうか。視界が開け、ハッと息をのもうとした瞬間、いやいやダメダメ頭痛ぇって感じだった。噛み締める時間さえもらえなかったというのは、後にも先にもこの時だけだったな。

ギルマンズポイントで頭痛と吐きそうな気持ち悪さに耐えながら、ガイドとT君を待つ。ウフルピークはここからさらに2時間以上の行程だ。ヤバいんじゃないか、ここまで来たら十分だ、降りたほうがいいんじゃないかとか……待っている間そんなことばかり考えていた。

やっとT君がガイドと共にギルマンズポイントに登ってきたが、お互い視線を合せ少しニコッとするだけで、本当はそれどころじゃない。特にT君は俺以上にヤバい感じだ。ガイドがいろいろと手当をしながら、「こいつはもうこれ以上は無理だ、下山する別のガイドにお願いして一緒に山を下りる」と言い、T君もそれに同意する。

その瞬間、「じゃあ俺も一緒に……」と言いかけた途端、それまでT君の世話をしていたガイドがクルッと俺を振り返って、

「じゃあお前は出発するぞ!」

と、なんの躊躇もなく俺に言った。その彼の言葉が少しだけ早かった。俺はエッと思って少なからず動揺もしたが、「いや、俺も下りる」と言うことさえも辛くて、ガイドに追い立てられるように頂上へ向けて歩きはじめたのだ。

キリマンジャロ

 

ここから頂上までの行程は、ほぼ機械になったように自動的に歩いていたというような感覚だったと思う。ただ途中、腹の具合に耐えかねて野グソした。

ついにウフルピークにたどり着くが、まったくもって頂点を噛み締める余裕なんて無い。写真を撮って、水呑んで、すぐにUターンして下山をはじめる。

キリマンジャロphoto : BISTRO KICCHYOMU  MOUNTAINEERING       

 

それでもとにかく登頂した。おそらくあの時、ギルマンズポイントで「お前はどうする?」などと聞かれていたら、俺は間違いなく下りていただろう。ガイドが「お前行くぞ」と言ったのは、何を根拠にした判断だったかわからない。おそらく俺の調子など知りもしないで、単純に言っただけだったんじゃないかとも思う。でも彼の、迷いを感じさせないあの一言は、“下りる”という可能性がただの少しもなく、残されたのは登るという選択肢だけだということを納得させるものだった。あの彼の一言だけが、まさかそれから2時間もある頂上への道にたどり着かせてくれたんだ。

その後は当然下り道だ。俺を頂上まで連れて行ってくれたガイドだけど、本当にガイドが必要なのはここからだった。山は登るときは頂上は1つだから迷わない。でも下りるときは少しでも方向を間違えると、下に行けば行くほどその誤差はどんどん大きくなっていく。当たり前のことだけど、俺はこのとき初めてそれに気がついた。

しかも降りはじめてすぐに霧がかってきて視界不良になったのだが、ガイドはどうやって方向を確認していたんだろう。ちょっと離れるとガイドの姿すら見えなくなるほどで、こっちも必死に追いかけたけど、途中で止まって指を立てたりしてるんだよね。風向きで方向確かめてるのか? 結局聞き忘れてしまったが、今でも不思議に思う。

キリマンジャロ

 

この日は2日目に泊まったハットまで降りて、そこで宿泊。先に下りたT君とも合流して飯を食う。腹は減ってるはずだけど食欲もなく、病人みたいなありさまで早々に寝床についた。

翌日はどんな体調だったか覚えていない。高山病はキレイさっぱりなくなってたハズだけど、気分爽快ってわけでもなかった。覚えているのは、そんなつらい経験をした俺に、最後、そんなことを忘れさせるような綺麗な青空の元、くっきりと聳え立つキリマンジャロ! ということはまったくなく、薄曇りのどんよりとした天気の下で、雲に見え隠れするキリマンジャロだった(イヤ、でも登りの最中とか、モシの街に滞在中、ホントにきれいなキリマンジャロは拝ませてもらいました)。

宿に戻って、T君とお疲れディナーを食べる。「いやー、結構辛かったよね」という話になるが、そのうち彼が一言。

「いや、俺山降りてハットに戻った時、自分では気づかなかったけどうんこ漏らしてたんですよね」

俺も途中で野グソをしたわけだし、きっと高山病の症状の1つなんだろう。

下山した俺がアドバイスするとしたら、高山病に気をつけろ。ただこの1点。どいつもこいつも景色がキレイだったとか(それは間違いないが)、貴重な経験だったとか、つまり良かったという話ばかり。いや、そりゃ良かったんだけどさ。今のところ、俺の人生No1の経験だけどさ。

キリマンジャロ登山証明書

 

ベトナム事情を伝えるはずの連載だが、自己紹介がてらと思い、初回から脱線してキリマンジャロの話を書いてしまった。次回はベトナムの話題に戻って、俺が住んでいる街の様子なんかから書いてみようと思う。

 

 

 

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